opinion
事務所代表、下平万里夫の「よろこびずむ論」のコーナーです。


よろこびずむ革命
                 
 

人生は楽しい!
今の日本に元気が無いのは不況だからではない。
大人が人生を楽しむことを忘れてしまったからだ。



このページは事務所代表・下平が書く、「よろこびずむ論」のコーナーです。
是非お楽しみください。
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目次

第一話 矛盾のない仕事をしたい

第二話 一人ということ


第三話 海と緑の葉山へ

第四話 海はふるさと

第五話 小学生ヨットマン!

第六話 愛すべき不良親父たち


第七話 TVゲーム禁止・TVなしの子育て

第八話 一家の主になるということ

第九話 楽しいことは「楽」じゃない   

第十話 本当のやさしさ

第十一話 勝てなくても頑張ること

第十二話 建築家住宅の住み心地

第十三話 波乗り賛歌

第十四話 SKYSHIPの朝

第十五話 若者賛歌「プロジェクトα」の提案

第十六話 プロジェクトα:マリオデルマーレ編




第一話 矛盾のない仕事をしたい


 大手ゼネコンのデザイナーだった頃、海外ホテルのスイートルームや大企業の役員室など超高級なインテリアばかりを担当したことがあった。現地に行くことも無く、朝から晩まで東京のオフィスで蛍光灯に照らされながらも一生懸命、リゾートホテルや高級住宅のいいデザインを研究した。ラグジュアリーな空間とか、本当に豊かな気持ちになるようなインテリアについて真剣に考えた。くたくたになって深夜にアパートに帰ってからも、狭い食卓に向かって特注織のじゅうたんのパターンをスケッチしたりしていた。
 そうやって深夜までデザインを考えてやっと床につく頃、生まれたばかりの子供がよく夜鳴きをした。泣き声から逃れるため、布団をかぶって横になっているとなんだか不安な気分になり眠れなくなることがよくあった。
 世間一般に一流と呼ばれるお客様の為の一流の空間をデザインしているという自負があったし、一生懸命いい仕事をしているという実感もあった。それなのに時折感じるこのちぐはぐな感じはなんだろうと思ったが判らなかった。
 それでも、デザインのプレゼンテーションは好きだった。あるとき、僕はある大企業のトップを相手にシャワールーム付きの社長室や豪華な役員フロアのプレゼンテーションをしていた。一張羅のスーツで僕なりにビシッと決めて、模型やインテリアのパネルを使ってカッコよくプレゼンを行っていたら、お客さまからじゅうたんの織り方による歩き心地の違いを質問された。答えようとして、ふと、僕自身はこういう厚さ3センチもある絨毯を靴で踏んで歩く生活なんて一度もしたことがないことに気がついた。そして、お客様の方は明らかに普段からこういう絨毯の上で生活している人間だった。思わず、「知ったかぶりして提案させていただきましたが、実は私は田無の30㎡の築20年の社宅に住んでいるものですからこういう高級な絨毯のことは全くわかりません、ごめんなさい」と答えそうになったが、大手ゼネコンのインテリアデザイナーという立場上、そうも言えず結局、知ったかぶりしてどこかで聞いたような通り一遍の説明をした。お客様は納得されたようだったので僕はひそかに胸をなでおろしたのだが、この時初めて僕は自分が知らない世界を知ったかぶりして提案しているのだという冷徹な事実にぶち当たってしまった。これはまるで車に乗ったことの無い人間が車をデザインしてそれがいかにすばらしいか説明するようなもの。なんてダサいんだろうと思った。考えてみると安月給で無理して買ったカッコいいスーツもハイテク高層ビルの海を見下ろす会議室もなんだか借り物のような気がしてきた。その時にはっと思い当たることがあった。自分の仕事について漠然と感じていたあの不安感はここにあったのだ。
 こんな暮らし方はどうですかとお客様に提案するラグジュアリーな暮らしと30㎡のアパート暮らしのギャップが大きすぎたのだ。お客様に勧めるからには自分がやっていて本当にいいと思う生活を提案したいと心から思った。雑誌や本の受け売りではなく、自分の感覚を自分の言葉で説明したい。そう思った。昔読んだコンセプターの浜野安弘さんの本にあった言葉がふと胸に浮かんだ。
いい歌だから僕も歌う、君も歌わないか。」(浜野安弘・質素革命)
そうだ、僕の仕事もこうあらねばならない。超高級ホテルのデザインは超高級な生活が判る人がやればいい。僕は僕が自然体で気持ちいいと思う生活をしよう。そして、それが本当に素敵なライフスタイルなら、それをお客様にも提案しよう。嘘の無い、矛盾の無い仕事をしたいと思った。
 そして35歳の時に大手ゼネコンを退職し、女房と小学校に入ったばかりの長男そして生まれたばかりの長女を連れて社宅をでた。折りしも山一證券が倒産し、底なしの平成不況の幕が切って落とされた年でもあった。仕事の当てはなにも無かったが、失業保険と貯金と合わせれば、一年ぐらいはなんとか食っていけそうだと高をくくっていたところもあった。不安も一杯だったが、同時に希望も杯のよろこびずむライフの始まりでもあった。
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第二話 一人ということ


 
独立開業といっても、とりあえず仕事も無く、まぁ心機一転、髪の毛でも切るかと入ったいつもの美容室で、マスターに独立の話をした。独立したのに仕事が無いという僕を哀れに思ってくれたのか、「それなら店の内装のペンキの色でも考えてもらうか」と言ってくれた。一瞬、ペンキの色のデザイン?この僕が?とも思ったがとにかくはじめての仕事である。興奮気味で事務所に戻り、デザイン作業に取り掛ると一気に朝までかかって模型まで作り上げた。もちろん、出来上がった模型はペンキの塗り替えなどではなく、外壁の一部まで壊さなければならないほどの全面改修の案であった。
 徹夜明けのまま、早速模型を持ってマスターに会いに行った。しかし、依頼されたペンキの塗り替えの提案ではなく、大改修の案なのでドキドキものだった。不安は的中した。にこやかに迎えてくれたマスターであったが、模型を見たとたん、案の定、顔がこわばり、黙り込んでしまったのだ。しばらくの気まずい沈黙の後、「で、いくらかかるんだ?」沈黙を破ってマスターの声が響いた。私が概略のコストを説明すると、打ち合わせの席に奥様が呼ばれた。
「美容師人生30年、色々な店をやってきたけど、最後の最後に、自分の理想の店を持ちたかった。」奥様を前にマスターの口から出た言葉は意外だった。模型の通りの店を作りたいというのだ。
「あなたの夢なのだからやりましょうよ。」と間髪を入れず、奥様。
いい夫婦だなぁなどと僕が感心しているとマスターはいきなりどこかへ外出してしまった。小一時間も経っただろうか。店の従業員が入れてくれたコーヒーの効果も虚しく、うつらうつらしながら待っているとマスターが戻ってきた。今、銀行に行って融資の確約を取ってきたから早速、工事にかかってくれというのである。ゼネコン時代、大企業のお役所仕事的な決済の遅さに慣れていた私は、その決断のスピードと行動の早さにはまた随分感心させられたものである。
 そうして美容室サンファンのプロジェクトが始まったが、始まってみると思わぬところで大変な苦労をすることになった。まず、見積もりを提出しようにも見積もりの作り方がわからなかった。契約書や請求書に至っては見たこともなかった。そしてそういうあたりまえの事務書類を作るだけでも勝手がわからずいちいち徹夜になった。コンピューターの扱いも厄介だった。プリンターの設定がうまくいかず、あっという間に朝になった。ゼネコン在籍時代には意識すらしなかった経理や総務の人のありがたさを痛感した。今まで自分ひとりでデザインしているつもりになっていたが、CADオペレータや事務の女性などいろいろな人に支えられていた自分があった。「一人はみんなのために。みんなは一人のために」入社したときにもらった組合の手帳に書かれていた言葉が脳裏に浮かんだ。僕は「みんなのために」を捨てたのだから「僕のため」の「みんな」も失ってしまったのだ。もう、誰も助けてはくれない。そう思うと大海に小さなボートで漕ぎ出したような不安感に襲われた。病気になっても怪我をしても有給休暇もない、野人のようにその日の糧は自分の力だけで取ってこなくては生きてはいけないのだ。会社とは能力のある人間から搾取する存在ではなく、色々な人がそれぞれの立場で支えあう一種の互助会だったのだと初めて気がついた僕だった。
 なれない事務書類作りに泣かされながらも、美容室のリニューアルの仕事そのものは面白かった。サラリーマン時代と違い、とことんプロジェクトにのめりこむことが出来た。カーテンで天井を作り、室内の間仕切りもカーテンで作る。客待ちスペースのテーブルには黄金のりんごの木を設置した。これはどこにも売っていなかったので僕自身が作り物の木を買ってきて金色のスプレーで塗った。スプレー一本では全然足りず、4本も使ってやっと塗りあがった。塗りあがる頃には僕の靴もズボンもゴールドに光り輝いていたが、黄金の木は素敵に出来上がった。こうやって現場に張り付いて自ら工事に参加するのもゼネコン時代は忙しくて出来なかったので新鮮だった。お陰で設計料は赤字になったが本当に美しいお店が出来上がった。夜、ライトアップすると信号待ちの車から人々がうっとりと眺めているのがわかった。なによりも、マスターと奥さんがとても喜んでくれたのが嬉しかった。
 リニューアルの結果、この美容室は、客層がすっかり変わってしまい、ジャージ姿のおじさんは来なくなった。その代わりに客単価の高いマダム達の美容室となった。客単価でいうと3000円から1万円に変わったのである。売上げも大分上がり、混んできたので完全予約制にしたが、今度はその予約すら入らなくなった。そして、翌年には同じマスターから2店舗目、サンファンPART2を受注頂くことになる。
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第三話 海と緑の葉山へ


 独立してすぐに思いがけず美容室のインテリア設計を受注させていただいたのを皮切りにポツポツと設計の依頼をいただくようになった。
 本格的に仕事が回り始め、アシスタントのH君も来てくれるようになってみると社宅を出る時にあわてて入居したアパートではいかにも手狭だった。そこでもうすこし広いところをと探し始めたのだが、いざ、家探しをしてみると、一体どこに住むべきかという問題ではたと考え込んでしまった。思い返すと僕はそれまでの人生でどこに住みたいかなんて深く考えたことは無かった。学校に通うのに便利な場所・会社に通うのに便利な電車の沿線、などと改めて思い返してみると僕はいつも何らかの必然の元に住む場所を決めていたのだった。独立した時も同じで、たまたま社宅があった近くに入居したというだけで、東京の練馬という場所に特別な思い入れはなかった。が、しかし、すでにいくつかの仕事をさせて頂いたお客様とはいい信頼関係を築かせて頂いていたし、そうしたお客様を通じて、やっと人脈といえるものも出来つつあった時期だった。そんな訳で零細企業の経営者としては、練馬を離れたくない思いもあった。しかし、そういう思いとは裏腹に自分らしい生き方をするライフステージとしてもっとふさわしい場所があるのではないかとも思った。そんな時、葉山の友人のKさんが僕を海に誘ってくれた。独立以来、休みもとらず、マンションの一室にこもりきりで働いていた僕の目に久しぶりに見る葉山は眩しかった。新緑と木漏れ日、きらきらと輝く青い海、そして潮の香り。
 ヨット部員として三浦半島の先で合宿に明け暮れた高校時代、世界選手権の強化選手にまでなったボードセイリング、など潮の香りとともに忘れていた青春の日々が蘇えった。ここで家族と暮らしたい!そして、僕が経験した海の素晴らしさや、恐ろしさを息子や娘にも自分の手で伝えたい。そしてここはきっと子供達にとって最高の故郷となるだろう。うまい酒と海に沈む真っ赤な夕日に酔いながら、初めて本気で葉山に住みたいと思った。



 東京に帰ってからもその思いは強くなるばかりだった。学生時代にウインドサーフィンを共に楽しんだ妻は葉山に住むと聞くと目を輝かせた。家族はOKだった。では仕事はどうなる?建築家の先輩に相談すると、デザインをやる人間が東京を離れたらだめだとか、どうせ移るなら青山がいいといわれた。東京から1時間半もかかる場所でデザイン事務所は出来ないとも言われたが、その頃には僕の葉山への思いはどうにもとまらなくなっていた。12年間のサラリーマン生活で失ってしまった自分自身を取り戻すにはこれしかないと思えた。お父さんは会社、子供は塾と習い事、遊びは海や山へ、家庭には寝に帰るだけという家族バラバラのスタイルから抜け出し、昔の人のように仕事も遊びも家族のイベントも家庭の中に取り戻せるかもしれないとも思った。
 しかし、当時、練馬で複合ビルの設計をしていたのでお客様との打ち合わせや現場の監理はどうするか?文房具や模型材料・設計用品はどこで買うか?など、葉山に移転するに当たって解決しなければならない問題も山積していた。ノートに葉山事務所のメリットとデメリットを書き出し、デメリットを克服する方法を一生懸命考えた。しかし、最後は自分に都合のよい理由を作ってエイやっと移転を決めてしまった。どうしてもうまくいかなかったらまた東京に戻ればいいのだという思いもあった。
 葉山への移転を決意した頃、「空き家があるので見に来ないか」とタイミングよく葉山のKさんから電話をもらった。早速、妻と2人の子供を連れ、葉山へ車を飛ばした。その家は御用邸のある一色海岸まで徒歩10分弱で広い芝生の庭と屋根のあるガレージを持つ2階建ての借家。思い描いたとおりの家だった。小2の長男が2学期に入ったばかりで中途半端な時期ではあったが、その場で、契約することを決定し、1ヶ月後に転居した。こうして、以前は決して実現しない夢のまた夢と思っていた葉山での生活が始まった。
        
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第四話 海はふるさと


 事務所兼自宅を葉山に移転して、まずはじめたのがジョギングと散歩だった。とにかく職場兼自宅から歩いて7分ほどで海岸なのだから、海好きの僕としてはたまらない。朝、昼、夕と海岸に散歩に出かけた。我が家から一番近い海岸は歴代天皇家に愛された葉山御用邸前の一色海岸だ。この海岸は車通りからは見えない上に駐車場らしい駐車場もないので意外と知られていないが湘南で最も風光明媚な海岸である。その御用邸の横の細い路地を抜けると、松林に囲まれた小高い丘の上にでる。その丘の上に立つと眼下に息を呑むような美しい海と海岸が広がっている。砂浜は弓なりに美しいカーブを描きながら、左端で半島のように海に向かって突き出す岩場となっており、そこから波に洗われた岩場が点々と沖まで続いている。この半島の先からは江ノ島越しに富士山がくっきりと見え、夕方になると言葉に出来ないくらいの絶景となる。また、ここの海は湘南でも最も透明度が高いとのことで本当に澄んでいて泳ぐ小魚まで見える。



 引っ越した当初は毎日変わるこの景色に会うのが楽しくて、毎日海へと通った。と書くと仕事をしていないみたいだが、もちろん仕事の合間である。テレビドラマに出てくる建築家は大体、模型を前にしてカッコよくプレゼンテーションをして、あとは色鉛筆か何かでさらさらとスケッチするだけだが、実際の設計の仕事はもっと地味でパソコンに向かってじーっと作業している時間がほとんどだ。当然、目も疲れるし肩も凝る。ストレスもたまるつらい仕事だ。しかし、設計の仕事をする場所としては葉山の環境は最高だった。モニターを見続けて肩がこってきたら、海岸にでて潮風にあたってリフレッシュしたり、アイデアに詰まったときも海辺に出るとどこからともなくフッとアイデアが湧いてきたりする。もやもやした悩みなんか、大きな海と白い入道雲を見ればどっかへ吹っ飛ぶ。葉山に来る前は、毎日海を見たら飽きるんじゃないかといらない心配もしたけど、こればかりは飽きることはない。葉山に来て5年が経つけれど、毎日海を見ていても今でも感動する。





 海にはなにか細胞を活性化させる力があるのだ。すべての生き物は海で生まれ、長い時間かけて海の中で進化を繰り返し、生命の長い歴史の中では、僕達の祖先が陸に上がってきたのはつい最近のことだ。僕達の遺伝子のどこかに長い海の記憶が組み込まれていても不思議はない。寄せて返す波の音や頬を撫でる潮風、五感のすべてが、体中の細胞のすべてが、母なる地球の鼓動を感じて喜んでいるのを感じるのだ。
 葉山に来て良かった。この海に毎日出会うことが出来る。こんな贅沢があるだろうか。この海は誰も所有できない。天皇陛下も僕も金持ちも貧乏人も皆平等にこの感動を味わうことが出来るのだ。海を楽しむには条件がたった一つ。それはここに自分が来なければいけないという事。インターネットが普及し、山奥にいても都会の最新ファッションを見たり買ったりできる時代になったが、この感動だけはバーチャルでは味わえないのだ。
 そう書くと、環境ビデオで一日中海の景色を楽しめるし、インターネットでリアルタイムに海をみることも出来るよという声が聞こえてきそうだが、もう一度言おう。海辺の感動はバーチャルでは味わえないのだ。理屈ではなくて、自分自身の精神と肉体が一体となり、さらに周りの環境と一体になっていく満足感とでも言おうか。特に夕日が富士山の向こう側に沈む時の感覚は格別だ。オレンジ色に輝く太陽が空を染めながら富士山の向こうへとジリジリと消えていく。と同時に西の空が赤く染まり始め、水平線の近くの雲がオレンジから濃い赤へと刻々と変化していく。最後は絶妙の赤とオレンジで海と空が溶け合っていく。その時、時間は時計という時を図るメジャーが示す数字ではなく、太陽系第三惑星のある位置が自分の位置そのものになる。自分と自分を取り巻く自然、そして、その自然をコントロールしている大宇宙のリズムの波の中にいる今、この瞬間の時空を実感した。波のリズムも潮の満ち引きも風の強弱も季節の移り変わりも、それぞれバラバラに存在する現象ではなく、すべて大宇宙の大きな波動の一部なのだと当たり前の事実を改めて再認識する。いつの頃から僕は時間を太陽の角度ではなく、時計で知るものだと思うようになったのだろう。季節や時間に関係なくコントロールされた空調といつも一定の明るさにコントロールされた環境のなかでは、時間は時計という機械が示す数字でしかない。都会のインテリジェントビルで働いていたころの僕には季節はカレンダーの数字、時間は時計の数字でしかなかった。その頃の僕は同時に体内時計もおかしくなっていたと思う。
 そして、その頃よく感じた体と心がバラバラになっているような感覚も、葉山に来てからは感じなくなった。一生命体としてのバランスを取り戻した感じだ。なんだか懐かしいような暖かいこの気持ち。それはそうだ。だって海はすべての生命の故郷なのだから。
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第五話 小学生ヨットマン!

 葉山に来て一番喜んだのはなんといっても子供達だった。夏になれば大好きな海遊びがしょっちゅう出来るし、海以外にも子供の遊び場が沢山ある。
 小学校3年生になると長男は、葉山町のジュニアヨットクラブに入り、毎週日曜日に葉山港でヨットの練習に明け暮れるようになった。父親の私も艇を運んだりのお手伝いをしている内に、学生時代ヨット部であったことを買われてコーチを依頼され、気が付いたら助監督となって私自身も子供達の指導に毎週日曜日海に出るようになった。



子供達の乗るヨットはOP級という一人乗りの小さなヨットで、ひとたび船に乗れば子供とはいえ、一人で帆と舵を巧みに操り安全に目的地まで航行させなければならない、れっきとした船長だ。ヨットは操船を間違えるとすぐ転覆する。転覆したら、一人で艇を起こし、一人でよじ登って乗り込まないと帰ることも出来ない。子供のヨットが転覆した場合、コーチボートが現場に急行し、まず、子供の安全を確認する。安全が確認できたら、転覆したヨットの周りをゆっくりと旋回しながら正しい艇の起こし方や乗り込み方を指導する。この時、僕達コーチはあえて手を貸さない。最近の子供達は、なにかと親が助けてくれることに慣れているので、初めて転覆したときも当然、コーチや親達が助けてくれると思っている。



ところが、泣こうが叫ぼうが怒鳴ろうが、僕らは「自分で起こせー、でないと帰れないぞー」としか言わない。しばらく泣き叫んでもどうもなにもしてくれないと思ったとき、初めて子供は自分の意思と力で艇を走らせる状態にするための必死の努力をする。
 また、風が強くなると艇が傾きすぎたり帆を引くロープが凄く重くなって、うまく艇を走らせることが出来なくなる。また、海が荒れてくるし、艇速も早くなるので特に小さい子供は怖がってパニックになる事がある。そんな時もあえてレスキューせずに見守ってやる。助けが来ないと判れば子供はやがて冷静さを取り戻し、なんとか自力でハーバーに帰ろうとする。
 海に出たら自分の命は自分で守るという海との付き合いを通じて、小3で入部したときには頼りないひよわな子供が、一年もすると小さいながらも精悍な海の男の顔になる。ヨットにマストを立てたり帆を付けたりする艤装作業も自分でやらせる。はじめはコーチの説明も真剣に聞いていない子でも、帆の向きやロープの結び方をいい加減にしていて海の上でトラブルを起こし、転覆や怖い思いを一度すると、急にコーチの言うことを真剣に聞くようになる。
 海は素晴らしい教師だ。手抜きをしたり、ごまかしたりすれば必ずしっぺ返しが来る。困るのは自分である。それだけに、自分でキチンと艤装ができるようになり、完璧に整備された艇を自分で自由に操縦して、海を思いどうりに走れるようになる喜びは大きい。小学校3年生といえどもおもちゃではない、本物のヨットの船長なのだ。



 親としても子供達を自分自身で指導するようになって気づいたことがいくつかあった。
まず、自分自身の知識や経験を自分の息子に伝えられることの喜びを知った。それまでは、今日は学校で何習ったの?とか聞くだけで、すぐに話題が尽きてしまったが、息子がヨットを始めてからは顔を合わせばヨットの話で盛り上がった。あんまり僕達が話し続けるので話題にはいれなくなった女房が「食事中、ヨットの話は禁止」令を一時は出したほどだ。
 たまたま僕はヨット部出身だったのでコーチになったが、このクラブの活動はボランティア活動で成り立っているのでお父さん達の協力が不可欠である。その為、ほとんどの子のお父さんが船を運んだり、レスキュー艇の運転をするなどの役割を分担している。同じジュニアスポーツでもサッカークラブや野球クラブでは、コーチ以外はほとんどお母さんがサポートするのに対しヨットは、大人の男の「力と体」が必要なのである。
 「大草原の小さな家」の時代には狩に出たり、家を直したりと大人の男しかできない仕事が沢山あったが、現代において大人の男がそのカッコ良さを見せられる機会は実に貴重だ。お父さんが、重いエンジンを軽々と運んだり、レスキュー艇を運転するのを見ているうちに子供達が自分の父親を見る目が違ってくる。特に荒れた海では大人の男達は実に頼もしい。
 それからもう一つ、父親以外の大人の男達と付き合い方を学ぶということも大事なことだ。今の日本では父親は地域社会にも子育てにも参加せず、会社一辺倒になっている人が多いから、子供達は父親以外の大人の男に接する機会が少ないのだ。特に成長期の男の子は大人の男達の中に自分の未来像を探すことが出来る。いろいろな年齢・職業のお父さん達を見ることはとても重要なことだと思う。ヨットを学ぶことで、自立心や親子関係まで親子共々学ぶことが出来るなんて、こんな素晴らしいことはない。
 スポーツクラブに子供達を入会させてお金だけ払っていては得られない体験なのだ。
子供と一緒に過ごす週末…それも遊園地に行ったりするのではなく、地域の仲間と海に出る。葉山に来たおかげで、まさに僕にとって理想的な子育てライフもまた始ったのだ。
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第六話 愛すべき不良親父たち

  
 東京から葉山に来てよかったことの一つに地域社会との付き合いがある。というとPTAとかなにかお堅い感じだが、わかりやすく言えば近所の「不良親父達」との付き合いがはじまったのだ。前号で書いた通り、僕はヨット教室のコーチになったのでヨット教室の生徒の親達・コーチたちとの付き合いが地域社会との最初の接点だった。
 ヨット教室はお父さん達のボランティアで運営されていたので、日曜日のヨット教室には様々な職業・年齢のお父さんが集まり、さながらお父さんの博物館のような様相を呈している。恵比寿のアパレルメーカーの社長、大手電機メーカー社員、学校の先生、自動車関係、呉服関係、医師、団体職員、米軍関係者、公務員、食器メーカー、土建会社の社長などなどそれぞれ個性的な面々だ。様々な職業のお父さんが集まると本当に頼もしい。
 土建会社の社長は、遠征やレースで移動するときはトラックを出してヨットを運んでくれたり、カスタムカーの製造をしているお父さんは、ステンレス金物を溶接して練習用のブイを作ってくれた。日曜大工の得意なお父さんは船の台を造り、ヨットの経験者はヨットを教えるという具合にまさに手作りで、皆が知恵と力をあわせて運営されているクラブなのだ。
 そういう仲間と出会えたことは本当に幸せだ。仕事の付き合いでも、同じ会社でもない、利害関係もない、約束なんてしなくても「それじゃあまた」と言って別れ、また翌週当たり前のように顔をあわせる仲間なんて、まるで学生時代のようだ。
 この仲間が素敵なのは、皆自分の人生を楽しんでいるところだ。いい年してハーレーを買い込んでしまったお父さん、20万のリールを買ってしまった釣りキチ親父、全長3mのラジコン飛行機を作っているお父さん、など世に言う不良中年だが、皆まじめに自分の人生に取り組んでいる。
 どういうわけか葉山の住人はこういう遊び人のおじさんが多いのだ。かく言う私も波乗りからバイクまで面白そうなことは何でも首を突っ込んでいるので女房には頭が上がらない。しかし、大の大人が人生楽しんでいなくて子供の教育なんか出来ないと思うのだ。
 お父さんが自分の人生を楽しまないで、子供にばかり夢を託すから子供社会がギクシャクすると思うのだ。人生を楽しんでいるお父さんの子供は傍で見ていてものびのびしているのが判る。こうしたお父さん達の楽しそうな会話を聞きながら、子供達も大人の世界をのぞき見るのだ。僕はまだ、このクラブに息子が入ってまだ5年だが、当時小学生だった生徒がいつの間にか高校生になり、30代だったお父さん達もいつのまにかりっぱなオッサンになってしまった。しかし、こうやって一緒に子育てをした親父達と一緒にジジイになって、相変らず、馬鹿話で笑いながら、一緒に釣りでも出来たらとても楽しいと思うのだ。
 こうして、時間とともに、積み重ねていく友情も僕の人生のとても大事な部分なのだ。ここでは家族サービスなんて言葉はなく、子育ても家庭もお父さんの趣味や遊びも仲間もみんな同じ海を中心に回っている。

不良親父万歳。
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第八話 TVゲーム禁止・TVなしの子育て

 我が家には中学生の息子と小学生の娘の2人の子供がいるが、彼らが生まれてから今日まで我が家にはTVゲームがない。理由は簡単だ。父親である僕が禁止しているからだ。友達が皆もっているとか、ゲームが出来ないと話題に入れないとか、一緒に遊べないとか,毎年子供達は色々な理由を並べたが、ダメなものはダメだと禁止してきた。
TVゲームは便利だ。これだけ与えておけばどこに行っても子供はぐずらないし、買い与えるおもちゃをあれこれ悩む必要もない。親は楽チンだし子供も喜ぶ。こんなに素晴らしいおもちゃはないとみんなが飛びつく。
しかし、我が家では禁止だ。理由は以下の4つだ。

1、TVゲームは考える力を育てない。
普通の遊びは、何をして遊ぼうかと考えることから始まり、遊び始めたら、どうやったらもっと楽しくなるかを考え続けなくてはならない。ところが、TVゲームは次々と自動的に出てくるストーリーに合わせてプレーしていくだけで楽しめてしまう。この楽な遊びになれてしまうと遊びを考える力が育たないので、他の遊びは退屈でつまらないものに感じてしまい、ますますTVゲームにのめりこんでしまう。

2、TVゲームはコミュニケーション能力を育てない。
人間とトランプをしたり、スポーツをするのと違い、TVゲームには表情がない。こちらが笑っても怒ってもリアクションがない相手といつも遊んでいれば自然と表情がなくなる。人間は表情で感情を表現することでコミュニケーションする動物だから表情が乏しい子供はコミュニケーションがうまくできなくなる。

3、TVゲームは五感を育てない。
ゲームをしている時の人間は視神経と指先だけが活動し、画面の進行に合わせて反射的に指先が動いているだけで、体のほかの部分は完全に感覚を失い、大脳もほとんど活動を停止しているという。実際、ゲームの達人と言われる人たちのプレー中の姿は異様だ。目を大きく見開き引きつったような表情で指先だけが痙攣を起こしたかのようにキーを連打している。バーチャルの世界には匂いも触感も味もなく、人工的な画像と音しかない。成長期の一番大事な時期に自分の肉体を通した体験が乏しく、文字通り無味乾燥なバーチャルワールドで育った子供がどんな大人になり、どんな社会を作るのか。想像すると恐ろしい。

4、TVゲームはおぞましいストーリーが多い
麻薬患者がより強い麻薬を求めるように、刺激の強いゲームになれた子供の脳は、より強い刺激を求め、メーカーはそれに合わせてリアルさを追求する結果、バーチャルワードはリアルな恐怖とリアルな殺人の連続になっている。暗闇から突然襲ってくるモンスターや切り刻まれて飛び散る腕や足、殺しても殺しても蘇えってくる化け物など、この世界に毎日数時間も暮らしていたらどうなるか。最近の少年犯罪のおぞましさを見れば結果は言わずともいいだろう。

以上は、全て僕の個人的な考えだから、定説でも学説でもない。自分の考えを他人に強制するつもりもないから、意見が違う方と議論する気もない。世の中には色々な考え方があると思うし、僕の考えは違うぞという方もおられると思うが、それはかまわない。ただし、僕の家族は別だ。僕は父親として、息子や娘の成長に有害だと僕が思う遊びはさせられない。それだけのことだ。

さらに、昨年からもう半年以上、我が家にはTVがない。必要なニュースはインターネットで充分だし、映画などはビデオでも見ることができる。もともと、我が家の子供達はTVは一日30分以下と厳しく管理してきた。しかし、長年愛用してきたTVが昨年、故障したのをきっかけに我が家からTVが完全になくなった。しかし、TVがなくなってみると色々とよかったことが多かった。
 まず、親子の会話が増えた。我が家では毎週日曜日の夕食後はお楽しみのみんなでTVを囲んでの団欒の時間だったが、TVがなくなってみると、トランプや会話などを楽しむ時間になった。つまり、いままでTVに向いていた家族の顔が、それぞれ向き合って過ごすようになった。子供達が集中して本を読んだり絵を描いたり、自分の時間を自分で工夫して遊べるようになった。また、TVを見ているといつもあっという間に過ぎ去っていた夕食後の時間がゆったりと流れるようになった。TVが家からなくなっていい事尽くしなので、TVなしの暮らし、今後も続けていこうと思っている。



 かくして我が家はゲームなしの上、TVまでなくしてしまった。でも、子供達よ、嘆くことはない。君達にはこんなに素晴らしい海と山そしてどこかのんびりした、葉山の友達がいるではないか。
 わからずやと言われても頑固親父といわれても、僕は君達の父親なんだ。そして、君達のことを本当に愛しているから、素敵な大人になってもらうために、あえて厳しいことを言います。いつの日か君達が大人になって、僕からの本当のプレゼントに気づいてくれる時が来るまで。



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第八話 一家の主になるということ

 僕は26歳で結婚したが、結婚するにあたっては随分悩んだ。当時はゼネコンに勤めていたが将来かならず独立するつもりだったから、その時のことを考えると養わなければならない家族を抱えるということは大きなリスクに思えたのた。僕は建築を作るのが好きだったから売れなくて貧乏しても仕事が出来ればそれで幸せだが、家族はそうはいかないだろうとも思った。
 しかし、実際に結婚してみると家庭は人生の足かせなどではなく、家庭もまた人生の意味そのものになった。



 会社から独立するときや、独立して最初の一年は本当にやっていけるのか不安な気持ちで一杯だった。独立してみて、今までは大手ゼネコンの看板にお客様もうなずいてくれていたのだ思い知らされた。
 やっぱり僕には無理だったとの思いがこみ上げた。いっそ、どこかのハウスメーカーでも再就職しようかとか、弱音を吐きそうにもなったが、僕を信じてついて来てくれた妻の前で、そして「パパおしごとがんばってね」と無邪気な手紙をくれる子供達の前でいまさら弱音は吐けなかった。



 独立してみて、僕が家長としてこの家族全員の命運を預かっているのだと実感した。「僕はこの家の主なんだ、負けないぞ!」なにか体の中から力が湧いてくるようだった。ビジネス書などに良く、立場が人を作ると書いて有るが、本当だ。父親らしい父親になりたい。将来、息子達が僕の年齢になり、一人の男として僕の生き様を思い出すとき、恥ずかしくない生き方をしたい。一家の主という立場にふさわしい僕になろうと思った。
 「結婚したら家族のことを考えて独立できなくなる」とか「自由がなくなる」と言っていた仲間は多いが、意外なことに独立して頑張っている仲間は家族もちばかりだ。一人は確かに自由だが、本当に一人で生きていけるほど強い人間はほとんどいないそういう意味で僕の仕事にとって家族の存在はとても大切だ。仕事か家庭かどっちをとるのかという二者択一ではなく、愛する人がいるから仕事も頑張れるのだ。

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第九話 楽しいことは「楽」じゃない

 うちの事務所のウェブサイトを見て、「楽しそうに仕事してますね」とよく言われる。たしかにリゾート気分たっぷりの明るい事務所だし、海辺でランチしたり、誰かがジョークを行ってワッとみんなで笑ったりと明るい職場であることは確かだ。でも僕は、本当の意味で楽しく働くとは和気藹々とか明るい雰囲気とかそんなことではないと思っている。一言で言えば「ものづくりを楽しんでいるかどうか」だと思う。
 設計事務所なので建築の設計をすることが仕事なのだが、本来、建築を考えるということはとても楽しい作業なのだ。ああでもない、こうでもないと議論しながら、全体のレイアウトを考え、そして、模型を作っては壊しながらだんだんと形が出来てくる。
 そして現場が始まればさんざん頭の中で想像した建築が、空間が現実となって立ち上がっていくのだ。何もない更地の上にある日、骨組みが組みあがって建築が忽然と出現した瞬間はなんど見ても感動だ。どんなに精密な模型を作っても、CGを何枚描いても、現物の迫力にはかなわない。ドラえもんの出してくれる道具のように、描いた絵が現実になるのだから、これは凄いことなのだ。
 


 ところが、こんなに楽しい筈の仕事なのにやり方を変えるとつらくてつまらなくなることがある。サラリーマン時代に、こんなことがあった。一生懸命、外観のスケッチを描いていたら、ある課長に「よっ、画伯!たのしそうだねぇ。」とからかわれたことがあった。スケッチを描いたり模型を作ったりして遊んでいる暇があったら設計図を描けというわけである。
 ゼネコンの設計部や大手設計事務所などの大人数の組織では分業化が進んでいて、模型やパース(完成予想図)の専門部署があり、設計者は設計図を、模型屋さんは模型を、パース屋さんはパースを描くのが効率的だということになっている。
 だから、僕のいた職場でも、勤務時間中に堂々と模型やスケッチを描くことは出来ないような空気があった。まず、設計担当者が図面を描いたら、それを元に模型や完成予想図を専門部隊が作れば、効率が良いというわけだ。
 これは一見、理屈にあっているようだが、実は図面を描くためには、その前に模型やスケッチで検討する必要があるのだ。だから、模型を作りながらスケッチを描き、図面を描いては模型を作り、という作業が一番自然だし、仕事の流れに無理がないのだ。
 ただし、図面だけ描いているときにくらべると作業量は増えるし、ただでも忙しいのだから、結局会社で模型を作ったりするのはあきらめてもっぱら自宅で深夜、作業した。気が付いたら家の中はコピー機やスタイロフォームカッターから旋盤・フライス盤までそろってしまった。お陰で独立するときは道具がそろっていて助かったが。
 


 サラリーマン時代に大組織での分業体制で苦労したから、今の事務所では模型はもちろん、CGやプレゼン用のちょっとしたムービーなども外注せず、自分達で作っている。
 6月28日の葉山ダイアリーを見ていただければ判るが、模型を作ったりCGを作るのも自分達でやる。大変だけど自分のプロジェクトだから楽しいのだ。もし、これが分業になって、誰か別の人が設計した建物の模型だけ作る仕事だったり、CGだけ作れと云われれば仕事はどんどんつまらなくなる。
 結局、楽しく働くとは「楽」に仕事をするのとは違うのだと思う。楽をしようとして仕事を簡単にすれば仕事は退屈でつまらないものになるのだ。
 大工さんの仕事も昔は材料の墨付けから加工まで大工の仕事だったが、今は、プレカット工場から送られてきた木材を組み立てるだけの組立工みたいな仕事になってしまった。たしかに仕事は楽になったが、昔の大工のほうがやりがいはあったと思う。
 僕らの仕事も公団住宅みたいな決まりきった建物をつくるだけなら簡単だし楽だ。見たことの無いもの、誰もやったことの無いものを作る仕事は大変だし、周囲の抵抗も大きい。でも、その分、未知への挑戦は楽しいのだ。
 僕はいい年をしておもちゃが大好きだが、さすがに幼児向けの簡単なプラモデルなんて作る気にもならない、やはりラジコンとか、帆船模型とか複雑で難しいものでないと面白くないのだ。結局、難しいことは楽しい、楽なことはつまらないということか。これは大変だ。

「楽」ができないよ…。

でも幸い、僕もスタッフもまだ若い、「楽」は老後の楽しみにとっておいて、今日もまた見果てぬ夢を追いかけていこう! 

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第十話 本当のやさしさ

・平等ってなんだ
 以前、小学校の運動会を見に行って驚いた。かけっこで一番もビリも同じところに並ぶのだ。人間は皆、平等だから、かけっこの早い子も遅い子も「みんながんばったから一番です」ということらしい。
 通信簿も相対評価ではなく、絶対評価でしかも3段階しかない。うちの子がほとんど三段階評価の一番上の「できる」だとよろこんでいたら、ほとんどみんな「できる」なのだそうだ。生徒の成績に順位をつけるなんてもってのほか、競争は悪ですということらしい。だから、成績別のクラスなんてとんでもない、算数ができる子も全然授業がわからない子も同じクラスで平等ですということらしい。当然、レベルはわからない子に合わせる。
 頑張った子も全然やる気のない子も同じこれが学校教育での「平等」なのだそうだ。

・負ける訓練
 だから、なにかに挫折したり、徹底的に負ける訓練をしていない。負けたことのない人間は弱い。受身をやったことがない人がいきなり柔道の試合に出ればどうなるかを考えればわかる。多分、ちょっと投げられただけで大怪我になるだろう。だから柔道の初心者は受身の練習ばかりやらされる。それから、投げられる練習を何度もやる。痛い練習だが、何度もやっているうちに受身がしっかりできるようになり、投げられても怪我もせず、さっと起き上がれるようになる。
 ましてや、実社会は柔道のような明確なルールも敵もはっきり見えないジャングルでのゲリラ戦のようなものだ。歩いていて突然、茂みから狙撃されるかもしれないし、休んでいて蛇に咬まれるかもしれない。学校を卒業して社会にでるということは、住み慣れた家を離れてそんな戦場へ出ていくことなのだ。実戦の場にでて、弾に当たったり、蛇に咬まれたりしてからでは遅いのだ。
 人間はみんな平等なんだから、なんていって散々甘やかした挙句、自分は何の努力もせず、個性だの夢だのばかり肥大して実社会を生き抜く筋肉のまったくないふやけた若者を、いきなり生き馬の目を抜くようなビジネスの現場に放り込んだらどうなるか。まず、否定されるだろう。仮に就職できてもやっていけるだろうか。それは、本人にとってとてもつらい日々となるだろう。



・会社が悪いのだろうか?
 冷たい社会が悪い?どうして今の経営者は若者をもっと暖かく見守ってやらないんだという人もいる。
 しかし、会社だって生き残るのに必死なのだ。会社にとっての社員の価値とは会社という船の漕ぎ手の一人として役に立つかどうかしかない。一人でも漕がない乗組員がいればその分みんなの負担が増すし、重くなった分だけ会社同士の競争にも遅れをとってしまうではないか。
 厳しいけど、その人が乗ったことで結果的に船のスピードが落ちたるような人には降りてもらうしかないのだ。人一倍漕ぐ力があるとか、そうでなければ、卓越した修理の技術があるとか、天候を読めるとか、その人が乗ることで結果的に船全体の能力をパワーアップできる力のある人しか僕の船には乗せられない。他の会社との競争に負ければ会社そのものが存続できなくなるのだ。今、一生懸命漕いでくれている社員の為にも、僕自身がこの船を指揮して第一線で戦い続けるためにも力のない人は乗せることができないのだ。

・敗者復活戦
 そういうことをいうと「それは勝者の論理だ、それでは敗けた方はどうなるのだ」という反論がすぐ来る。しかし、考えても見て欲しい、うちの事務所だけが世界でたった一つの職場ではないし、建築設計だけが職業ではないのだ。
 実際、デザインが下手で設計士としてはどうしようもなかったのに営業をやらせてみたら、大好評でNO1営業マンとして活躍した人や、逆に営業成績が全然上がらなかったのに現場監督をやらせたら正確・確実な工事で現場マンとしての才能を開花させて人もいるのだ。
 しかも、僕の評価は絶対のものではないし、逆にその人のレベルが高すぎて僕が理解できないのかも知れない。あの有名建築家の安藤忠雄さんでさえ、若い頃は何度も設計事務所を首になっていると聞いた。
 人生は高校野球じゃない。幾つになっても何度でも敗者復活戦ができるのだ。

・残酷なやさしさ
 それよりも、出来ない人をまぁいいよと甘やかすことのほうが残酷だと思うのだ。会社の余裕のあるときはそれでもいいが、業績が悪くなれば能力のない人はかならず重荷になる。仕事が出来ない人を何年も甘やかしておいて、中年になってから「能力がない人は辞めてもらいます」ではあまりにも無責任だ。最近の中高年リストラの悲劇の元凶はそこにあると僕は見ている。

・本当のやさしさ
 さて、大分話が脱線した。話を子供の教育に戻そう。
 要するに僕が言いたいのは、運動会のかけっこで皆一番なんて茶番はもう止めてくれ、ということなのだ。負けは負けとして認めたところからその子の個性が始まるのだ。
 負けたことで自分と向き合うチャンスが出来る。負けても負けてもかけっこが好きなら毎回ビリでも頑張って続けるといい。かけっこが嫌いなら音楽で一番をとればいい。学校の科目が全部駄目でも昆虫博士ならファーブルみたいになれるかもしれない。



 実社会では挫折することだって多いし、ひどいいじめに遭うことだってある、色々なことがある。どんなにつらい目にあってもへこたれない逞しい精神を鍛え上げるのだ。
 世の中のお父さん、お母さん、学校の先生、スポーツのコーチよ、お願いだ、子供達を厳しく鍛えてください。高校・大学の先生、学生にやりきれないほどの宿題を、課題を与えてください。
 江戸時代の武士の子供は朝4:00から夜寝るまで剣術・算盤・読み書きを休む間もなく学び、その間に掃除や水汲みなどの家の仕事も立派にこなしたという。今のように暖かいストーブもクーラーもなかった時代にだ。
 鉄は熱い内に打てというが、鉄は叩いて鍛えると、もとの鉄よりはるかに硬く、錆びないハガネとなる。そうやって作られた釘は何百年前の遺跡から出てきても錆び一つないそうだ。叩いて鍛えぬいて鋼の精神をつくってあげることこそ子供達への本当のやさしさではないかと思うのである。

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第十一話 勝てなくても頑張ること

 僕は葉山町のジュニアヨットクラブでコーチとしてお手伝いさせてもらっている。最初は、ヨットのメッカ葉山で練習するのだから子供達もさぞかし強くなるだろうと思ったが、なかなかどうして、敵もさる者、他のクラブも強豪ぞろいでなかなかい勝たせてはもらえない。
 もちろん、コーチの私の力不足が決定的な理由の一つだと思うが、毎週土日に練習している他の強豪チームと日曜日しか練習できない葉山のチームでは練習量が全然違うというハンディもある。
 それはそれで仕方ないのだが、毎回毎回、大きな大会に出てもなかなか上位に選手が出てこないのは、本人はもちろん、コーチも親も非常につらい。



 ヨットレースは前回のOPINIONで例に挙げた小学校の徒競走とは違い、100艇出艇したレースなら100番まできっちり順位が掲示板に張り出される。
 負けた選手にとっては、それだけでも充分つらいことなのだが、本人にもっとつらいのは、みんながゴールしてしまった後、沢山の観覧艇からギャラリーが見守る中、悪い順位でゴールに入っていくことだろう。
 僕達はなんどとなくそのシーンをゴムボートから見ているわけだが、あるとき時間切れギリギリでゴールした子供のお父さんが、「俺達は子供にすごく残酷なことをしてるんじゃないかと思うことがある」とポツリともらしたことがある。
 凍りつくような冬の日も雨の日も毎週一生懸命練習して、頑張っているのに大会にでると全然勝てないのでは、無力感ばかり味あわせる結果になるのではないか、というのである。
 それを聞いて僕はコーチとして本当に子供達に申し訳ない気持ちで一杯になった。生徒は一生懸命、やっているのだから結果がでないのは僕の責任だと思ったし、自分はコーチする資格はないと思ったが、代わってくれそうな方もいないのでもっと優秀なコーチが代わってくれるまでは、とにかく一生懸命頑張るしかないと僕はその時はそんなことばかり考えていた。
 しかし、最近は、すこし考えが変わってきた。本当に負け続けることが残酷なことなのだろうか、と考えるようになった。好きなことや遊びの中でつらい思いをしておく事、敗者の気持ちを知っておくことも人生における大切な学びの一つなのではないかと思うようになった。
 レースには全然勝てなかったけど、ヨットに乗るのが大好きで息の凍る真冬も強風で荒れ狂う日も毎週、海に通ったという経験は、将来、かならず彼を支えるときがくるのではないか、と思ったのだ。
 社会に出るとそういうことは沢山ある。



 僕だって会社に入った頃は、設計が下手でどうしようもなかった(今でも決して上手じゃないがその頃よりは大分ましかな)。優秀な同僚は沢山いたし、どうして僕だけが出来ないなんだろう、やっぱり向いていないのかと深く悩んだこともあった。
 年中上司に怒られたけどそれでもデザインの仕事が大好きだったから続けられた。下手でも下手なりに頑張ってあきらめなかったから、今もこうして大好きな設計の仕事が続けられるのだと思う。
 僕よりもデザインがうまいのに、途中で設計をあきらめて別の職業に進んだ人も沢山いた。実際、大学の建築学科の同級生約180人の中で卒業後20年経った今、自分で設計事務所を主催している仲間はほんの数人だ。大学に入ったときはほとんどが建築家を目指していた筈なのにだ。
 僕の場合は才能があったからではなく、あきらめなかったからだと思っている。他の人のことは知らないが。特に、最近の若い人を見ているとちょっと叱られただけで僕には才能がないと悲観して会社を辞めてしまったり、別の道に進む学校に行ったりと諦めがいいというか、執念が足りないような気がするが、結局どんな道でも最後に栄冠を勝ち取るのは、あきらめずに最後までしがみついた者だけだと僕は思うのだ。
 話をヨットに戻そう。僕のコーチングの悪さを棚に上げてこんなことを言うのは恐縮だが、勝てないスポーツの効用について僕なりの楽天的な意見を言おう。
 ヨットクラブの子供達がいつか憧れの職業を目指して社会に出る時、彼を受け入れる社会は必ずしも暖かくはないかもしれない。毎日、先輩や上司に叱られて怒鳴られて、もう駄目だやっぱり無理だとあきらめそうになった時、葉山の青い海と風の音を思い出して頑張ってくれるのではないか、と思うのだ。
 逆の場合もある。彼が社会に出たとき、運と才能に恵まれて、賞を貰ったり、表彰されることもあるだろう。そんな時、自分は喜びのまっただ中に居ながらも、敗れ去ったライバル達の気持ちを理解できる青年になれるのではないだろうかなどと思うのである。
 さらにこの文章を書いているたった今、気づいたことがもう一つあった。何を隠そう、我が家の中一になる長男もヨット歴7年目にして未だに表彰台に上ったことがない。いつかは表彰台と夢見てきたが、どうやら夢のまま終わりそうな雲行きになってなきたのであるが、実はこのまま息子が表彰台に上れなくてもいいような気がして来た。
 こんなことを言うと少し気恥ずかしのだが、もう既に僕達は海から素晴らしいトロフィーをもらっていることに今、気づいたからだ。本気で怒鳴ったり、ほめたり、泣いたり、笑ったり、親子喧嘩したり、勝てなかったからこそ、勝とう勝とうと親子でもがいた海の上での悲喜こもごもの思い出こそ、僕達の一番のトロフィーではないかと…。

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第十二話 建築家住宅の住み心地

 子育てと教育の話は尽きないが、たまには本業の建築設計について少し触れてみたい。
 実は昨年の12月に我が家を新築した。もちろん、設計は有名なMARIO DEL MARE一級建築士事務所(笑)である。建築家が自分の設計した家に住むのは当たり前のようだが、意外なことに自分の設計した家に住んでいる建築家はそう多くない。どういうわけかマンションや借家住まいの建築家が圧倒的に多い。
 個々の理由は様々だと思うが、僕には、どうも嘘っぽい気がしてならない。だってもし、フェラーリのデザイナーが家ではホンダの車に乗っていたらおかしいでしょう。それと同じだ。
 ついでにもう一つ言わせて貰えば、自分の使ったことの無いものを平気な顔をして売っているハウスメーカーの営業マンも何かおかしい。お父さん役と子役のモデルが一緒に模型かなんか作っているハウスメーカーの写真も何かうそ臭い。なんでうそ臭いかと言えば、企画マンが雑誌をめくりながら机の上で練り上げた、実体験の伴わない机上のプランだからだと思う。
 僕は、デザインとは流行を追いかけてなんとなくかっこ良くて売れそうなものを作ることではなく、デザイナーの生き方や哲学を形にすることだと思っている。これが売れそうだから作ってみようかではなく、まず、自分が欲しいものをデザインし、こんなにいいから君もどう?という所が原点だと思うのだ。
 僕は、まず自分と家族にとって一番気持ちよいライフスタイルをデザインしたい。そう思って、いつもまず、自分の欲しいものをデザインしているから、出来上がった作品は当然、僕自身が一番欲しいものでもあるのだ。
 だから僕はデザイナーでもあり、同時にMARIO DEL MARE作品の一番のヘビーユーザーでいたいのだ。自分で使って見て問題のあるところは改善の方法を考えるし、良い所は自信を持ってお客さんに勧められる。
 目指すは「いい歌だからぼくは歌う、君も歌わないか」(浜野安弘)の境地である。
 さて、それではいざ自分の作品に暮らしてみた感想はというと、これがホントに気持ちいい住宅なのだ。自分の作品をこんなふうに書くと自画自賛になるから嫌なのだが、毎日暮らす空間が素晴らしいと家に帰るのが本当に楽しみだし、休日なんかどこにも行かず、ずっと家にいたくなってしまう。
 まぁ、葉山という場所自体が元々、気持ちの良いところだということもあるが、家に居ると下手なリゾートホテルなんて行きたくなくなるのだ。いまさらながら、自分の為に細部まで設計された家を持つ意味を知った。毎日の暮らしがリゾートホテル、いや、それ以上の空間だと、日々の生活そのものが実に快感なのだ。
 しかもそれが自分の居場所、帰るべき家なのである。ホテルや借家ではいつかは出なければならないという気がしてなんとなく腰が据わらない感じがしていたが、自分の家では、本当の自分の居場所だけがもつ、強い安心感につつまれるのだ。
 よく住宅雑誌などで借家住まいと持ち家どちらがお得かという特集があるが、僕にいわせればどちらがお得どころか、持ち家(特に僕が作った家)ならホント人生バラ色と言ってもいいぐらい凄い力があるのだ。
 世の中には言葉ではどうしてもうまく説明できないことがあるが、この気持ちよさはも自分で体験してみないと判らないものかもしれない。実際、設計者の僕自身でさえ自分の家を建ててみないとこの感じを本当に理解することは出来なかったのだから。なんだか今回は下手なセールマンの売り口上みたいになってしまって、恐縮だが、だって本当に気持ちいいのだ(あっ!又書いてしまった)。
 
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第十三話 波乗り賛歌

 波とメイクラブ!
 ヨットやボードセイリングは、昔から親しんでいたが、葉山に来てから他にもいろいろな海遊びをするようになった。その中でも僕が今一番、はまっているのが波乗りだ。
 家から歩いて5分程のところにある僕のお気に入りの海岸は、とても美しい海岸なので葉山に越したばかりの頃はほとんど、毎朝・毎夕散歩していた。この海岸は普段は波も小さく静かな入江でなのだが、風の強い日や台風が近づいてくると突然大きな波が立ようになる。すると、どこからともなくサーフボードを持った人たちが現れ、波乗りをはじめるのだ。散歩がてら見ているとスピード感もあり実に楽しそうだ。機会があれば本格的にやってみたいものだと思っていると、ある日家の近くにサーフショップがオープンし、どれどれちょっと覗いてみようと入ってみたら、出てくるときには真新しいロングボードを持っていた。
 こんな成り行きのままに37歳で始めた波乗りであったが、この遊びを知って僕の海人生は変わったといっても過言ではないほど、波乗りとの出会いは衝撃的だった。はじめるまではウインドサーフィンの兄弟みたいなものかとと軽く考えていたのだが、実際の波乗りとは僕が知っているヨットやウインドなどのマリンスポーツとは全く違う異次元のスポーツだったのだ。
 ヨットやウインドサーフィンは風のパワーを使って走る。以前、グライダー乗りの人がヨットの帆に風を受けてセイリングする感覚は飛行機の操縦によく似ていると言っていたが、まさに水面を飛翔す る機体を操縦するという感覚なのである。もちろん、操縦に失敗して転覆したり、ボードから振り落とされたりしても、海や風が襲い掛かってくるわけではない。それに対し、波乗りは波という生き物との格闘技だ。一瞬の隙、小さなミスでバランスを崩せば、波というモンスターが容赦なく襲い掛かってくる。一度巻かれれば、海底にひきずりこまれ、上に下に右に左にグルグル回しにされ、運悪く岩やボードにぶつかれば大怪我をすることもあるし、命を失うこともある。しかし、うまくテイクオフして波を自由に滑り始めたら凄い快感が全身を駆け巡る。これがあるからやめられないのだ。
 波に乗るまでのプロセスも面白い。浜から見ると同じように見える波も海上で見ると大きさも形もブレイクするポイントもそれぞれ違うのだ。じっくりと見定めて、これだと思う波を見つけたら、その波がピークに達する位置を予測し、すばやく移動し、波が立ち上がるタイミングに合わせて全力でパドリングする。このとき待っている位置やパドリングのタイミングが悪いと波には乗れない。待つ位置が前過ぎても後ろ過ぎても早すぎても遅すぎても駄目なのだ。波待ちからテイクオフまでの微妙な駆け引きのこの感覚は格闘技というより、女性を口説くのにも似ているかもしれない。遅すぎれば置いていかれるし、早まると頭から波に突っ込まされ、文字通り冷や水をぶっ掛けられる思いをする。前に後ろにこまめに動き、ご機嫌を伺い、上手に波をリードしてその気にさせ、うまくテイクオフしたらもうこっちのもの。波と呼吸を合わせ正に波と一体になる感覚は最高だ。
 しかし、うまく乗っているときはエキサイティングでご機嫌な波も一つ間違えばとたんに凶悪なモンスターと化して襲い掛かってくるあたり、本当に女性みたいだ…などと云うつもりはイエイエ毛頭ございません、ハイ。
 まぁ、波乗りとはこのように最高に楽しい遊びなのだ。お分かりいただけたでしょうか。えっ?全然わからない? そうでしょう。恋愛と一緒で人生には体験しなくてはわからないことも沢山あるのですよ。ではまた。



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第十四話 SKYSHIPの朝

 ちなみに我が家は空中に浮かぶ船をイメージしたデザインなのでスカイシップ号と名づけた。この家は、僕の家族・僕の会社とそのスタッフが乗り組み、共に人生を旅する、まさに船なのだ。そして僕は船長として「家族がちゃんと愛し合って子供達がまっとうに育ち、会社のスタッフがそれぞれの技術を研鑽しながらもちゃんと会社も業績が上がるようにしっかり舵をとっていくぞ」という思いも込められている。
 前置きが長くなったが、本題に移ろう。実は第12話で書いた「建築家住宅の住み心地」が好評だったので、もう少し具体的に「住み心地」について書いてみようと思う。
 とりあえず今回は「朝」編である。

「SKYSHIPの朝」 
 朝は鳥達のさざめきと寝室のスリット窓から細く差し込む朝日で目覚める。この家に来てから目覚まし時計の世話にならずに済むようになった。ベッド起き上がりブラインドを開けると青々とした芝生とライムグリーンの木が朝日を受けてキラキラと風に揺れている。
 夏は格子戸だけを閉めてガラス戸は全開にして寝るので、朝、芝生に日があたると青草の香りが風に乗って入ってくる。この家に住んで朝と夜では風の匂いも違うのだと初めて知った。ちなみに1階の大型の建具にはすべて外側に格子戸を設け通風と防犯を両立させている。



 まずは、シャワーで体を目覚めさせる。バスルームの壁は一面が前面ガラスになっていて、そこからは、オレンジと黄色の葉をつけた楓ごしに遠くに葉山の山々が見渡せる。この窓はMARIODELMAREオリジナルのフルオープンに出来る木製建具なので、全開にするとまるで露天風呂のようになるが、オリジナルの竹垣がプライバシーを守ってくれるから安心して露天風呂感覚を楽しめる。ぬるめのシャワーでクールダウンしたら、クローゼットルームで今日の服選びだ。
 僕の生活スタイルを知り尽くした“僕”が設計しているからこういう朝の生活の流れにそった部屋のレイアウトになっている。クローゼットでお気に入りのシャツとジーンズに着替え廊下に出ると、階段の吹き抜けを通して子供達の元気な声が聞こえる。
 吹き抜けのお陰でこの家はどこに居ても誰が何をしているかなんとなく感じることが出来る。プライバシーがないとも言えるが、アパートじゃあるまいし、一つ屋根の下で暮らす家族に完全遮音の個室は不要だと施主である僕は判断したのだが、やはり一階と二階を繋ぐ吹き抜け階段は正解だったと思う。
 壁から持ち出した踏み板だけが空中を登っていくような開放的なデザインにより、階段スペースそのものが縦長の大きな吹き抜けのようになっている。僕は朝、この階段を登る瞬間が大好きだ。2階のリビングルームに充満した朝の光が、階段の吹き抜け上部からあふれてきて、まるで、光の中に登っていくみたいだからだ。
 光の階段を登りきると突然、視界が開け、天井高4mの大広間にでる。机に向かっている子供達とキッチンで朝食の支度をする妻に朝の挨拶を交わす。この2階の大広間は、リビングとダイニングと勉強部屋、そして妻のワークデスクとキッチン、それらの空間を一つにまとめた大空間になっているのだ。
 ダイニングとリビングの南側の壁は床から天井までの大きなガラス窓になっていてそこから葉山の町並みと山々を見渡すことができる。この山並みは雑木林だが、春には山全体が、山桜でピンクに染まる。桜の後は、新緑→深緑→紅葉→冬景色と一年中楽しませてくれる。この山並みの間から朝日が昇るのだが、この景色は毎日見ても飽きない。朝日の中での朝食は昔からの夢だったが、現実のものとなった今も毎日感激している。
 さて、これ以上、書くと自画自賛もほどほどにと言われそうなので、とりあえず今回はこの辺で。

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第十五話 若者賛歌「プロジェクトα」の提案

 NHKのプロジェクトXが相変らず人気である。団塊世代が戦後の焼け跡から今の日本を作り上げたことを思い出し、日本を勇気付ける番組ということであるが、その反面、凶悪化する青少年犯罪とフリーター・引き篭りのニュースなど先行きの見えない現代への失望感の裏返しが人気を支えているとも思う。 しかし、これだけ続けばそろそろ過去の凄い男の話はもういいよと思うのである。 その代わりTV局やマスコミ関係の皆さんに「プロジェクトα」を企画して欲しいのだ。 昔の成功ではなく、今、頑張っている若者達…つまり将来のプロジェクトXとなるべく頑張っている若者達の応援歌、それが「プロジェクトα」だ。確かに私たちの現在の繁栄はプロジェクトXの世代の頑張りがあったからであるが、私たちの未来はプロジェクトX世代ではなく、まだどうなるかわからない若者世代の活躍にかかっているのだ。
 終身雇用制が当たり前で大企業は絶対安心だった僕の20代の頃と違い、現代の若者を取り巻く環境は非常に厳しい。就職難の上、絶対につぶれないといわれる大企業が倒産し、リストラが横行する。しかし、そんな先が見えない時代だからこそ彼らは真剣に人生に悩み、それぞれに必死に自分の将来を考えている。そして、多くの若者は僕が若い頃よりも遙かにまじめに自分の未来に向かって努力している。
 昔、ナイル川を船で旅をした時、エジプトの神殿の壁に書かれた象形文字をガイドが解読してくれた。そこにはなんと「最近の若者は遊び好きで不真面目でどうしようもない。」と嘆いている文章が書かれていたのだ。年配者が自分の時代を美化し、若者を批判する風潮は三千年前からあったのだ。しかし、社会全体が活力を失った今こそ、未来を憂い、思い出に浸るのではなく、これから始まるプロジェクト=プロジェクトαを社会全体で応援しようではないか。
 大人がどうなってもそれは未来には影響しないが、若者や子供が夢をもてない社会は、必ず衰退する。頑張っている若者のプロジェクトαのなかから、40年後、プロジェクトXになっているドラマが出てくるはずだ。
 ちなみに私の事務所にも「プロジェクトα」な青春ドラマが沢山ある。次回は「プロジェクトα」マリオデルマーレ編について書いて見たい、どうぞお楽しみに。


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第十六話 プロジェクトα:マリオデルマーレ編

 センター試験によると最近は建築学科が大分人気があるようである。TV・雑誌でも安藤忠雄氏やル・コルビジェなどの巨匠から、リフォーム番組に出てくる若手まで建築家が登場する場面は増えてきている。そういう華やかな一面を見て建築家ってカッコイイと思う若者が増えているのは不思議なことではない。
 しかし、建築家の日常というのは図面を描いたり、役所折衝をしたりと実は地味な作業の連続でもあり、イメージと実際のギャップから折角就職しても挫折する若者も多い。
 そんな中、大企業でもなく、有名事務所でもない葉山の小さな設計事務所で自分の未来の為に頑張る若者たちの青春群像がここにある。今、僕の事務所では建築家を目指す若者達に実際の実務を体験してもらう場を提供している。僕達がオープンデスクと呼んでいるこの制度を利用して沢山の若者達が事務所を訪ねて来る。

  

 関西から夏休みを利用してオープンデスクに参加し、鎌倉のユースホステルに泊まって自転車で葉山まで40分ちかくかけて通ってくる女子大生や会社を辞めてオープンデスクに参加した20代後半の男性もいた。こんなことを言っては失礼だが、今は海のものとも山のものともわからないこの若者達だが、仕事に向かう姿勢は真剣そのものだ。きっとこの中から未来の安藤忠雄や未来の妹島和世が出てくるのだろうと僕は感じるのだ。
 また、学生達の真剣なまなざしにさらされることは、僕やスタッフにとっても良い刺激になっていると思う。彼らはプロにはないピュアな目で建築に向き合っている。彼らと向き合うと、中途半端な設計は出来ないぞとこちらも気が引き締まるのだ。

  

 有難い事に僕の周りは素敵な若者達であふれている。彼らはうちの事務所のデスクを借りてスキルを磨き、自分に足りないものを発見する。そして、彼らの存在が事務所の情熱と活気を倍増してくれる。こんな若者達がいる限り、将来の日本は安心だと思うのだ。

負けるな若者達よ!
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次回第17話は近々アップの予定です。
アップしましたらTOPページにてご連絡いたしますので、
今しばらくお待ちください。



拙文をお読み頂いてありがとうございます。
書きたいことは沢山あるのですが、なかなか忙しい遊びの合間じゃなかった、
仕事の合間を縫って書いておりますので、更新が遅れがちなことをお許し下さい。
ただ、作者は極めて単純な性格なので、なにか感想など頂けるとモチベーションが
いきなりアップして、飲みに行く時間を削ってでも書く気になると思います。

沢山の激励のメールありがとうございます。
どんどんアップしますので、どんどんご意見ください。
どうか「見たよ」の一言でも、叱責、共感、激励、でもなんでも結構です、
下記のフォームにお気軽に感想を頂けると嬉しいです。

ありがとうございました。返信ボタンを押して送信をお願いいたします。

                                             

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